ある日、その女の子は自殺をはかった。大量の薬を飲み、彼女は泣きながら横たわる。彼女から見えるのは、誰もいないバスルームの光景。彼女が命を絶とうとした原因は、学校での陰湿なイジメだった。
イジメのリアルが描かれた映画「ガール・ライク・ハー」
「ガール・ライク・ハー(原題:A GIRL LIKE HER)」はドキュメンタリー形式で、イジメのリアルを描いた映画だ。私がこの映画を見て感じたのは、「イジメをなくそう」というのはきれいごとだということ。
イジメというのは学校生活だけに限らず、どこにでも存在するものだ。ただ、学校というのは閉ざされた環境ゆえに、大人の社会で起こるそれよりもエスカレートしやすい。そして、大人であれば犯罪にもなり得るような行為が、学校内では当たり前のように横行する。
- 相手を誹謗中傷する言葉(直接的な暴言だけでなくメールやLINE、SNSでの悪口)
- しつような嫌がらせ(トイレに閉じ込める、水をかける)
- 物を壊したり盗む行為(教科書を破ったり、服やくつを隠す、落書きをする)
- 暴力(殴る、蹴る、わざとぶつかる、階段から落とす)
- 脅迫・カツアゲ
この映画の中では、誹謗中傷がエスカレートし、メールで「嫌なら死になよ。状況が良くなるとでも思ってるの?」といった内容のメールを執拗に送るシーンがある。これは、日本だと「自殺教唆」とみなされることもあり、状況によっては殺人罪に問われる可能性も孕んでいる。
不思議なのが、学校で授業をサボれば怒られるのに、こういった行為は誰もが見て見ぬふりをしているということだ。私もイジメられた経験がある。イジメる側になったこともある。見て見ぬふりをしたこともある。
おそらく、学校生活のなかで「イジメ」に関わったことのない人のほうが少ないのではないだろうか。自殺に追い込まれて顕在化しているのはほんの一部だ。イジメをなくすことは難しい。ただ、エスカレートする前に、向き合うことをすべきなのだ。イジメる側も、イジメられる側も、それを見ている側も、行動には結果が伴うことを知るべきである。
誰かが自殺してからでは取返しが付かないのだ。命は戻ってこない。
ジェシカが自殺という決断に至るまで
物語は、ジェシカが自殺をはかるところからスタートする。
この映画は、①ブライアンが撮影した映像(イジメられる側の親友目線)、②ジェシカが胸につけていた隠しカメラ付きのブローチからの映像(イジメられる側の目線)、③エイブリーが自分の日常を撮影した映像(イジメる側の目線)、④学校を取材しているドキュメンタリー制作スタッフが撮影した映像(第三者の目線)の4つの目線が描かれる。
ジェシカに対するイジメの首謀者は、学校の人気者であるエイブリー。アメリカと日本という文化の違いはあるが、日本でも人気者のグループ、地味なグループなど、学校内での位置というものがある。スクールカーストとも呼ばれ、その三角形の底辺に存在するものほどイジメの標的になりやすい。
エイブリーがイジメの首謀者であることは、物語の序盤から明白で、生徒や先生へのインタビューを見ても、イジメの事実を認識していた人は多い。それでも、なかなか認めないエイブリーだが、状況は少しずつ変わっていく。そして、だんだんとイジメの首謀者であるエイブリーが抱える心の闇に迫っていくのだ。
エイブリーがジェシカをイジメる理由。
それが明らかになり、彼女が自分のしたことの冷酷さに向き合ったとき、彼女もまた逃げることのできない辛い現実を背負うことになる。
この映画が訴えるイジメ問題の本質
イジメがあっても見て見ぬふり
ジェシカの自殺を受け、インタビューを受ける教師や学校の生徒たち。彼らは以下のように発言している。
- イジメがあったとは認識していない。(校長)
- 子どもは相手をからかい常に意地悪をするもの。訴える場がないし、学校側は調査したがらない。(教師)
- イジメ対策はあるけど、きれいごとでしかない。(教師)
- 表面的には解決して見えても、陰では何も変わっていないかもしれないし、悪化しているかもしれない。(教師)
- 告げ口をすれば、今度はまた新しいイジメが始まる。(教師)
- 現場を見てもなにもしないと思う。(生徒)
- ぼくらはシマウマ。後続の仲間がライオンに食べられるのを見ている感じがする。(生徒)
- 彼女たちは人気者でオシャレで友達もいる。親に愛され、全部手に入れてきた。(いじめをする)理由が分からない。(生徒)
映画『ガール・ライク・ハー』より
校長は「噂でしかない。なにも把握していない」と言っているが、インタビューをしてみると、多くの教師、生徒がイジメを認識している。
告げ口をすれば自分が標的になってしまう…そんな思いから皆が見て見ぬふりをする。映画の舞台はアメリカだが、これは日本でも一緒のはずだ。
生徒だけでなく、教師も何となく気づいてはいるが、どう対応していいか分からないため、具体的な対応には出ていない。私の学生時代もそうだったが、「授業中に寝るな、携帯は持ってくるな、髪の毛は染めるな、スカート長くしろ」などちょっとしたことでは怒られるのに、ことイジメに関する注意はされないというのが学校での暗黙のルールだ。
スカートが短いこと、髪の毛を染めていること、そんなことより人を傷つける行為のほうが、人としてよっぽど悪い行為のはず。イジメ問題の本質は無意識に「臭いものに蓋をする」行為にあると私は思う。ちょっとした校則違反は注意がしやすいのだ。ルール違反は分かりやすい。
反対に、イジメの根は深く、本当にイジメなのかは判断が難しいのだ。そんな噂があったとしても、実際にその現場を押さえない限り、当事者はこの映画のエイブリーのように白を切ることができる。
イジメる側が自分のしていることを分かっていない
この映画を観れば分かるが、当事者が息をするように白を切る。
「私はイジメなんてしていない。ちょっとふざけただけ。」
客観的に見れば、エイブリーがしていることは完全にイジメだ。でも、本人にとっては「ちょっとふざけただけ」というのはあながち本心なのかもしれない。
最初は、ちょっと気に入らない奴をからかっただけだった。ちょっと無視しただけだった。でも、相手の反応が面白くて(もしくは相手の反応が余計にイライラして)、やることがエスカレートした。そんな感じに見える。
映画の中で、エイブリーは学校の人気者で、誰から見ても全てを手に入れている女の子だ。でも、本当は違う。エイブリーもまた心に傷を抱えていたのだ。彼女も逃げ場を失い、だれにも相談できず、心の中にたまったストレスをジェシカにぶつけていたのだった。
イジメの原因は様々だろう。運動が下手でイジメられる、太っていてイジメられる、真面目すぎてイジメられる、気に入らないことをしてイジメられる、目立ちすぎてイジメられる。イジメる側は、「ちょっとからかっただけ」のつもりかもしれない。
でもそれが何度も続いたら?エスカレートしたら?
イジメている側の感覚と、イジメる側の感覚にはかなりの差がある。
「ちょっとイライラするから、あいつをからかってやろう」たったそれだけのことなのかもしれない。でも、された側には暗く深い影を落とす。
この映画ではそれをよく描いている。親友と映画を楽しむジェシカ、バスケットボールを観戦するジェシカ。その顔はとても楽しそうに輝いているのに、そこへエイブリーの罵倒が入る。嫌がらせのメールが届く。その瞬間、ジェシカの顔はこの世の終わりのように暗くなり、さきほどまでの笑顔はどこにもない。
それだけ、悪意をぶつける側と、ぶつけられる側で1回の重みが違うのだ。
エイブリーは、隠しカメラで撮影されていた自分の行為を映像で見て初めて、自分がしたことの重大さを認識する。
悪化させるのが怖い、逃げ場所がないという意識
この映画では親友の機転で、イジメの様子が映像として残されている。しかし、リアルなイジメの現場ではそんなこと不可能に近い。映画のなかでも、ジェシカは「見つかったら、もっと悪いことになる。誰かに見られるのが恥ずかしい。」と言って、隠しカメラを付けることを嫌がるのだ。
イジメられていると、状況を悪化させたくないという想いが強くなる。それ故に、誰にも相談できず、一人で抱えこんでしまうのだ。
ジェシカはこう言う。
「状況は良くならないわ。終わりがない。逃げ道がない。」
親友のブライアンはジェシカの味方だ。それでも、逃げ道がないと追い込まれてしまう。これが、本当に一人だったら?親友だと思っていた人にも無視されたら?その絶望は計り知れない。
ジェシカはここには居場所がないと思ってしまった。そして、ここで生きるより死ぬことを選んだのだ。
「イジメの果ての自殺」と聞いて多くの人が、死ぬくらいなら逃げてしまえばいいのに…と言う。でもその声は自殺してしまった彼・彼女には届かないのだ。
彼・彼女らには「その世界(学校)がすべてだと思う必要はない」と教えてくれる人が近くにいなかったのだ。
首謀者だけが「悪」?
映画を観ると分かるが、エイブリーだけが悪者ではない。自分以外の人間を見下しコントロールしようとするエイブリーの姿は、娘を支配したがるエイブリーの母の姿そのものだ。
イジメは、エイブリーの取り巻きも一緒になって嘲笑い、ジェシカに恐怖を与えたことだろう。
イジメの現場を目にしても、見なかったふりをして通り過ぎたクラスメートはジェシカの目にどう映ったのだろうか。誰も自分を助けてくれないという孤独感や絶望を与えなかっただろうか?
子どもも親も知るべき現実
この映画では自殺を図ったジェシカを取り巻く周囲の人たち、親友、学校の生徒、先生、保護者たちの姿をリアルに映し出すことで、イジメが一個人の問題ではないという真実を突き付ける。
イジメは学校だけの問題ではない。社会全体で、あらゆるイジメが存在する。会社でのイジメ、近所付き合いでのイジメ、ママ友の間でのイジメ、家族間でのイジメ。
人は、生きている以上、気にくわない人に出会うこともあるだろう。でも、だからといってその人の人生を破滅に追い込む必要はあるのか?ないに決まっている。
そして、重要なのはそれを分かっている人間ばかりではないということだ。だからイジメな無くならない。
では、親はどうしたらいいのか?
自分の子どもがイジメられているかもしれない。
イジメる側になっているかもしれない。
もしくは、イジメを知っていながら見て見ぬふりをしているかもしれない。
イジメに関する部分を、どの立場であるにせよ子どもは上手く隠すのだ。私もそうだった。きっと私の親はいまだに、私がイジメられていた事実も、イジメたことがある事実も、見て見ぬふりをした事実も知らないだろう。なぜなら、私は親に話していないし、学校でも問題にならなかったからだ。
だからこそ、子どもたちに伝えたい。
軽い気持ちでからかったつもりでも、それがイジメにつながり、人の人生を破滅させるということを。
見て見ぬふりをするのは、イジメを加速させる原因になっていることを。
たとえ、イジメられたとしても学校だけが居場所ではないということを。
どうか、「我が家には縁のないことだ」と決めつけず、子どもと一緒にイジメについて考えるきっかけを持ってほしい。『ガール・ライク・ハー』というタイトルだが、『ボーイ・ライク・ヒム』でもある。ジェシカのようにイジメに会う子、エイブリーのようにイジメの首謀者になる子。そんな少年少女がたくさんいるという事実を知ってほしい。
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